夜の騎士のあれこれ噺

世の中にはあれ?これ?と思うことがいっぱい。

地元の隠れた「旧跡」

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家内イメージ 4家内が足首を骨折してから、私が買い物に訪れている
大型スーパーからの帰りに歩数を稼ぐために、わざ
わざ遠回りする道を選んだ時、地元でも恐らくあまり
知られていない「清水左近家 源隆硯の墓」という
案内板を見つけ路地に入ってみました。

墓所の入り口にはさらに詳しい案内板があり、
この墓所には徳川家11代将軍「徳川家斉」の侍医
であった「源元琳宜珍」さんと「源隆硯」さんを
中心とした墓所であることが紹介されてました。

その案内板によると・・・
源元琳宜珍(読みかたが分からな~い)は、1808年
9月18日(56歳)に、徳川家11代将軍一橋家斉公の
侍医に取り立てられ、三つ葉葵の紋の着用を
許されたとあります。

そして「源隆硯(この人の読みかたも分からな~い!)」
は、江戸期天領(徳川家の直轄地)であった落幡村
(現在の鶴巻地区です)名主で、伯父の宜珍より
医術を学び「西洋式外科手術」も修め、元珍没後
の将軍家典医として江戸との間を往復した。
また、一方で広く近在の民衆を済けたので、没後も
病気平癒を願う人々の供物が日々絶えることが
なかった。

抜粋ですが、こんなことが紹介されてました。

まっ、当時最高の権力者「徳川将軍家」の「お抱え
医師」だったんですね。

江戸との落幡村の往復といっても、往復約130km
くらいはあったはずなので、大変だったでしょうね。

また、当時からこの地が江戸幕府の直轄地で
あったとは知りませんでした。当時から「煙草」の
栽培で有名だったのかな~?。幕府がその利権を
一挙に抑えてたのかもしれませんね。

タバコ奉行なんかが、幕府から派遣されてたりして?

ついでに二人が仕えた「徳川家斉」についても
調べてみたら・・・

徳川家11代将軍家斉は、日本でも珍しい「子だくさん
将軍」として有名で.17歳から55歳まで、ほぼ毎年
子供が誕生しており、全部で男子26人、女子27人
の名前が確認でき、さらに流産した水子が7人いたと
いわれてるそうです。

正妻は第8代薩摩藩島津重豪(しげひで)」の娘
広大院を筆頭に「側室が24人」、さらに彼女らの
使用人として働く女性の中から「お手付き」が
さらに20人以上がいたとといわれてるそうです。

こども53人のうち、幼くして天折したのが25人、
成人したのは28人です。

少子化の現代からみれば、すさまじい「子だくさん」
ですね。大奥の「お世継ぎをめぐる」「おんなの争い」
なんかにも興味がありますね。