夜の騎士のあれこれ噺

世の中にはあれ?これ?と思うことがいっぱい。

ご先祖様自慢

本日午後1時から皇居・宮殿松の間において国内外から約2000人が参列

する中で、天皇陛下が即位を内外に宣言する「即位礼正殿の儀」が厳かに

施行されました。

 

しかし、幕末から明治にかけて徳川将軍家侍医、明治になって宮中侍医

として功績を遺した「浅田宗伯」という漢方医がいなければ明治天皇の代で

万世一系」の血筋が絶え昭和天皇も平成天皇も今生天皇も存在せず、

皇室も違ったかたちになっていたわけです。その国体維持を守った漢方医

「浅田宗伯翁」が私からみて5代前のご先祖にあたるのです。

 

私の実父浅田敬之進は私が小学3年生の時に早逝しましたので旧姓は「浅田」

でした。その後母が養父内藤と再婚しましたので姓が内藤になりましたが

血筋としては浅田宗伯翁の直系となります。しかし、母の再婚により「浅田家」

とのつながりは現在はなにもありません。

 

明治天皇の皇后・一条良子には子が得られず、明治6年9月に側室の権典侍

葉室光子が男子を死産,同年11月には典侍・橋本夏子が女子を死産、

明治8年1月には権典・柳原愛子親王を出産しているが翌9年6月に死亡、

明治10年9月には同じく柳原愛子内親王を出産しているが翌年7月に死去して

しまいました。そして明治12年8月30日早朝、青山御所で待望の男の子が生まれ

「明宮嘉仁(はるのみやよしひこ)」と名付けられました。この明宮になにか

あれば天皇家の系譜が途絶えてしまうのですが明宮は生まれつき病弱で

西洋医の医師団が治療にあたってましたが、いっこうに病状が好転しな

かったため西洋医たちは担当から外され、当時の漢方医学の最高峰宗伯が

呼ばれたのです。(このとき宗伯65歳)

 

危機的状況にあった乳幼児の治療に宗伯はさまざまな処方をしています。

後に浅田流.漢方を引き継いだ弟子の木村長久がこう語っているそうです。

「このとき先生が差し上げた薬は走馬湯で、これによって皇子は危機を

脱せられたのです。この走馬湯は巴豆(ハズ)を主剤にした猛烈な薬で

ありまして、一歩誤れば薬のために命を損す恐れがあるものです。かかる

猛烈な薬を差し上げた浅田先生の心中を思うと息詰まる感があります。

普通医者が高貴なお方を治療する場合は、周囲の非難を恐れて思い切って

できないのですが、浅田先生は積極的に断固として自己の信ずる療法を

差し上げた。もし間違いがあったのなら、いつでも自決する覚悟で

あったのです。それで宮中にご奉仕するときには、身を清め、下着は白無垢で

懐には短刀を納めて居られたのです」

 

結果、無事危篤状態は脱せられ、以後病弱ではありましたが皇太子に

任ぜられ「大正天皇」として天皇家の系譜を続けることが出来ました。

もし明宮が幼児のときに夭折していたら、天皇家の「系譜」はどうなって

いたんでしょうか?私はそんなことを思いながら本日の「即位礼正殿の儀」

のTV中継を観てました。

 

浅田宗伯翁は幕末には、フランス公使レオン・ロッシュが悩む腰背部の

激痛を鍼と漢方の治療で5日間で治癒したことでナポレオン三世に報告され

謝辞が届いた。

 

そして討幕軍の江戸城総攻撃の前夜に、当時大奥に君臨して江戸城総代と

いっていい天璋院篤姫の「嘆願書」を医者という立場を利用して西郷隆盛

届けて勝海舟と隆盛との江戸城無血開城の面談前の「根回し役」も担いました。

さらに西洋医学を重視する明治政府に対し漢方復興のため「温知社」を設立し

漢方医にも医師免許の道の運動を続ける(これは残念ながら不成功)と同時に

「皇国名医伝」「先哲医話」「皇国脚気考」など多くの漢方医学書を残しています。

 

さらに「せき、声、のどに浅田飴」のキャッチフレーズで有名な

ロングセラーの家庭薬「浅田飴」は浅田宗伯の書生であった同郷

(長野県松本市)の堀内伊三郎が独立するとき、当時としては破格の20円の

退職金と、清治丸(丸薬)と法王湯(振り出し薬)と御薬さらし水飴

浅田飴の原型)の処方を授け伊三郎は御薬さらしを売り出し当初は売れな

かったものを「浅田宗伯直伝・浅田飴の商標」と「良薬、口に甘し」のキャッチ

コピーで売り出したところ爆発的な人気商品になり現在に続くロングセラー

薬品としての位置を保っています。

 

私が先祖である「浅田宗伯翁」をなによりも尊敬するのは、晩年,宗伯の

弟子たちが語ったという「貧しい者からは診察代金・薬代を受け取らず、

それを幾らと問うものを嫌った、そして相応の身分のものからは相応以上の

礼金を要求した」という「医は仁術」の姿勢を生涯を通して実行していた

ことです。ですから現在牛込神楽坂の受験雑誌や参考書発行の「旺文社」の

ところにあった診療所には門前市をなす勢いで患者が押し寄せ、診察を待つ

患者相手に露店がでるほどであったようです。まさに「神楽坂の赤ひげ先生」

ですね。

 

        ☆動画      大正天皇    23:25

        https://www.youtube.com/watch?v=9BFMStc3YMI

                       

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幕末・明治の徳川家、宮中侍医の漢方医「浅田宗伯翁」