夜の騎士のあれこれ噺

世の中にはあれ?これ?と思うことがいっぱい。

日中口述歴史文化研究会インタビュー

イメージ 1

イメージ 2
本日はたまたま地元で知り合った桜美林大学教授
李素貞教授が13年前から主宰してる、日本と中国
の戦争体験者の歴史体験を記録として残すために
続けてるのためのインタビューを、小田原のUMECO
(市民交流センター)で李教授、オーストラリア在住
で来日中の息子「田(でん)」さん、と昨年李さんと
満州に行ってきた我々の仲間Oさん、Mさん、女性の
Iさん、そして私の6人で、佐藤文昭さんという
現在79歳の方にお会いして、終戦から引き揚げへの
ドサクサの時代の体験を約3時間にわたりインタビュー
させていただきました。

☆佐藤さんの体験は終戦間際のドサクサであったとは
 言え、現在はまあまあ平和の中で暮らせてるワタシ.
 たちには想像できないものでした。
 いくつかのものをアトランダムに紹介しますと・・・.

 ・佐藤さんは1939年(昭和14年)生まれの79歳
  1942年(昭和17年)に「千曲郷開拓団」として 
  父、母、兄、姉、姉、私、弟の7人で満州に入植
 ・悲劇の始まりは入植3年経過した1945年8月9日
  のソ連の突然の侵攻
 ・入植者たちは役所に武器をもらい、荷馬車に食べ物
  衣類を積んで避難.を始めたが、ソ連の爆撃で
  避難路の橋が爆破されており、そこからは手に
  持てるだけの荷物での逃避行となった。
 ・部落を出て5日目、ソ連軍の爆撃,匪賊の襲撃
  で多くの人が亡くなりましたが、「ハタホ」にたどり.
  着き、日本人が逃げた後の2軒の日本人家屋で休   息をしてました。
 ・その日の夕方、父兄たちが匪賊攻防に出かけた
  隙をねらって匪賊が襲撃してきました。. 
 ・その時文昭さんと姉・妹の3人は押し入れに隠れて
  いました。私の隣にいた人はお腹を撃たれて亡く
  なりました。私の母は、生後4ケ月の弟をおんぶ
  して玄関で殺された人の血を体に塗りつけて. 
  死んだふりをして土間に伏せていました。匪賊は
  母の背負い紐をつかんでゆすぶりましたが、
  その直後、隠れていた女の人が現れたのでその人
    が銃で撃たれ、母は助かったそうです。
 ・父と兄が戻ってきて、父の声で私たちは押し入れ
  から出て、この奇蹟的な親子7人の無事を
  喜びあいました。

  ・逃避行7日目の8月15日(内地では終戦
   玉音放送!)。誰からともなく「このままでは
   全員死んでしまう。女子供、傷ついた者は
   自決しかない.・・・」ということになりました。
  ・5歳半の私は母たちと自決組でした。家の
   周りに燃える草を積み,火を放つ用意を
   していました。母に手を握られた私は何が起こる
   かしるよしもありませんでした。でも、母と姉の話
   を聞いているうちに身の危険を感じてきました。
   その会話は何故かいまでも今でも耳の奥深く
   残っています。(佐藤さんは、この話の時は
   声を詰まらせていました)
   姉は(この時8歳くらい)「母ちゃんは生きて内地 
   に帰って。あたいは文昭(私)と重満(弟4ケ 月)
      と3人で死ぬよ。3人だから平気だよ。
   母ちゃんはカラダが弱いから病気になったら
   あたいの名を呼んで・・・、治してあげるから。
   あたいは鈴蘭の花が好きだから鈴蘭の花を
   見たらお線香をあげて」、そしてまた、成田山
   お守り袋を出して「これはあたいだと思って
   仏壇にあげて」。姉は弟をおぶい目から沢山の
   涙がでていました。

   自決のための1発目の手りゅう弾が飛んできま
   した。その時.「まだ.死ぬのは早い。出てこ~い!」
   と父の声がしました。母と私が外に出ようとした
   時に2発目の手りゅう弾が飛んできて2番目の姉と
   弟は死んでしまいました。母と私は反射的に外に
   出ようとしましたが周りの人が逃がしてくれま
   戦。家の出口や窓は火が燃えていました。
   私は手を振り切って母を追い地獄から逃れ
   出ました。そこに兄さんがいて(当時15歳)
   少し離れた.鳥小屋に私を隠してくれました。
   ほかに2人も隠されていました。外の騒ぎが
   収まったころ鳥小屋を出ました。自決現場は
   まだ炎に包まれていました。死にきれない人
   たちの叫び声が聞こえました。周辺には人影は
   ありませんでした。私は「父ちゃーん、母ちゃー
   ン!」と泣き叫びながら駆け出しました。
   兄は隠した手前、近くにいたようで父と一緒に
   連れ戻しに来ました。父と兄はみんなの手前  
   もあるので、わたしを殺そうと思ったようですが
   殺せなくてみんなの所に連れて戻りました。

上記は佐藤さんの手記から、匪賊の遊撃から一命
をとりとめた部分、集団自決から父と兄のお蔭で
一命をとりとめた部分を、ほぼ原文のママ抜粋
させてもらいました。(佐藤さんの.手記の一部と全文
をブログに掲載すること、「緑のはだの」会報の
次期春号に転載することの了解は本人から了解を
もらいました。

今まで何人かの人に戦争体験話を聞いてますが
今回のさんの話は、聞いてて「身の毛がよだつ」
ほどの恐ろしい話でした。

   ☆画像
    上  インタビュー中  手前右が佐藤文昭さん..
    下  記念写真
        前列右から  N藤、佐藤、O木
        後列右から  李さん、I山さん、田(でん)
                  さん