夜の騎士のあれこれ噺

世の中にはあれ?これ?と思うことがいっぱい。

米国従属のもとは昭和天皇の政治関与

もと

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志良以孝著 「核戦争にひた向かう わが「国体」の背徳」ウインかもがわ

まだ読み終わっていなのですが、志良以孝さんという90歳超の

方が書かれた「核戦争にひた向かう わが「国体」の背徳」という本を

読んでいます。日本が米国従属になった経緯を非常に明解に論じて

いるのですが、その中で敗戦間もなくの「戦争放棄」を決めた新憲法

の中で、日本の防衛をどうするかについて「象徴天皇」になったにも

かかわらず「政治に関与」した項目がありますので、「全文」を引用

して紹介します。(同書のP66~67)

★(ここから引用)天皇の政治関与

 1947年5月3日に施行された新憲法以降、象徴天皇になった昭和天皇

 「重要な政治的行為」を『昭和天皇の戦後日本』からあげておきます。

  *1947年5月6日、マッカーサーとの第4回の会談で、『米軍による

   日本防衛』を要請する、

  *同年9月19日、「沖縄の半永久的な米軍支配を求めたメッセージ」

   をシーボルトを介してワシントンに送付する。

  *1948年2月27日、「アメリカの極東における外郭防衛線」の設定を

   求める天皇の見解をシーボルトに送付する。

  *1949年11月26日、マッカーサーとの題9回会見で、「ソ連が唱える

   早期講和論」を批判し、ロイヤル米国防長官の「日本放棄説への懸念」

   を表明する。

  *1950年4月18日、マッカーサーとの第10回会見で、「イデオロギー

   対しては共通の世界観を持った国家の協力によって対抗しなければなりません」

   と、主張

  *1950年6月26日、講和条約に向け、吉田政権とは別に、「日本国民を真に

   代表する日本人による諮問会議」の設置を求める「口頭メッセージ」を

   ダレスに伝える。

  *1950年8月19日、公職追放の緩和と、基地の日本側からのオファーを強調

   する「文書メッセージ」をワシントンに送る。

  *1951年1月末から2月にかけ、正式な日米交渉とは別に、鳩山一郎など

   公職追放中の有力者らとのダレス会談を要請し、実現させる。

  *1951年8月27日、リッジウエーとの会見で、講和条約がいかに「公正で

   寛大」であるかという「天皇の考えを公表する良用意がある」と伝える。

こうした、立憲主義に反する天皇の一念で、日本を植民地的従属国家に貶めた昭和

天皇の、一連の行為は決して見逃されるべきものではありません。

 

ここまでが引用ですが、次の項で著者は、昭和史家の保坂正康氏の言として、    

昭和天皇が新憲法のもとで、「象徴天皇」になってからも「憲法逸脱」行為を

繰り返したのは、憲法上の規定より、「皇統」を守り抜くこと、天皇制を防衛する

ことが至上の課題であったからです。

とも著者は書いています。

 

右系の方は、この昭和天皇の意向に沿っていまだに動いているのかな

と思わせてくれました。