夜の騎士のあれこれ噺

世の中にはあれ?これ?と思うことがいっぱい。

源実朝公御首塚(みなもとのさねともこう みしるしつか)

昨日、秦野市の東公民館で憲法九条の会・はだのの臨時スタッフ会議に
参加してきました。

私は前回のスタッフ会議に参加しなかったので様子が解らなかったんですが、
10月23日に弁護士「伊藤真」さんの講演会が決定してるのに、会場の
候補が文化会館小ホール(収容約500名)と東公民館大ホール(収容約250名)
の二つが残り、チケット、ポスター、チラシ印刷の関係から急ぎ決定する
必要から開催されたワケです。

東公民館での会議は現地でホール、アクセス、その他の施設面の視察を兼ねて
いました。

どちらの会場も一長一短があり、長い時間全員が意見を出し合いましたが
決定に至らず、結局挙手で決めることになり6対5の僅差で文化会館小ホール
に決定しました。

現地視察は午前中に終わり13:00からの会議までに約1時間があったので
前から行ってみたいと思っていた旧跡「源実朝公御首塚」と真向かいにある
田原ふるさと公園に行ってみました。

鎌倉幕府の三代将軍「源実朝」は1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮
で右大臣拝賀式を終えたあと、甥の公暁によって暗殺されました。

鎌倉で暗殺された実朝の首塚がなんで秦野市にあるのか?

ワタシの当然の疑問ですよね。   調べてみました。

暗殺した公暁三浦義村の家臣長尾定景によって成敗され、公暁が持ち去った
実朝の首は、同じく義村の家臣武常晴(たけ つねはる)が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったと伝えられているそうです。

ちなみに公暁を成敗した長尾定景は上杉謙信の祖で、現在の横浜市戸塚区
一帯が領地でした。

また鎌倉武将「武常晴」は長尾定景父子とともに三浦義村から公暁追討を
命じられ、実朝の首を手に入れることができたのだ

その首を三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼って武氏がこの地に埋葬したと
案内板で説明されてました。

波多野氏は平安時代末から鎌倉時代に相模の国波多野荘(現在の秦野市
が本領でした。   なるほど、ここで秦野市と実朝公の首塚が繋がりました。

ちょっとした秦野市の歴史に触れてきました。

憲法九条の会・はだのの説立メンバーで実質的なまとめ役である武さんは
実朝の首を祀った武氏の末裔ということも他のスタッフから聞きました。

   ☆画像     上から   

         源実朝公御首塚

         田原ふるさと公園  園内の手打ちそば屋が有名らしい

         秦野市 東公民館

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